宮津城(別名:鶴賀城・京極城)概要: 宮津城は天正8年(1580)、細川藤孝(後の幽斎)が築いたのが始まりとされます。丹後、丹波地方は守護職である一色氏が治めていましたが天正6年(1579)、織田信長は細川藤孝と明智光秀を当地方に派遣、一色氏が排除され、丹後が細川領、丹波が明智領となりました。藤孝は宮津城を居城として定めると、丹後国の中心として整備、しかし、本能寺の変で盟友である明智光秀が謀反を起した為、豊臣秀吉に恭順の意を示す為、早々と隠居し家督を忠興に譲ります。忠興は関ヶ原の戦いで東軍に組し、隠居した幽斎はに田辺城で西軍と籠城戦を展開、正室細川ガラシャは人質になる前に自刃するなど大きく東軍勝利に貢献したことから豊前中津(大分県中津市)39万6千石と大幅に石高を増やし移封しています。
代わって京極高知が丹後国12万3千石で入封、当初は田辺城に入城しましたが、宮津城の改修、拡張が終えると、居城とします。高知が隠居時に領内を宮津、田辺、峰山に3分割にし、嫡子である京極高広が宮津藩の初代藩主となり、宮津城の整備を引き継ぎます。2代藩主高国が改易になると寛文9年(1669)には淀城(京都府京都市)から永井尚征が、天和元年(1681)には岩槻城(埼玉県さいたま市)から阿部正邦が入封しています。
元禄10年(1697)には宇都宮城(栃木県宇都宮市)から奥平昌成が、享保2年(1717)には飯山城(長野県飯山市)から青山幸秀が城主となり、宝暦8年(1758)に浜松城(静岡県浜松市)から松平(本庄)資昌が入封するとようやく安定し本庄氏が明治維新まで藩主を世襲しています。明治以降は廃城となり多くの施設は破棄され、縄張りも宅地、市街化整備の為、形跡を見るのは難しいされ、唯一残された太鼓門が宮津小学校の正門として移築されています。
宮津城:上空画像
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