・樫原の地は古くから開けていた地域で、古墳時代前期に築造されたと推定される百々池古墳や、一本松塚古墳、古墳時代中期に築造されたと推定される天皇の杜古墳等の古墳が点在しています。
7世紀半ばには樫原廃寺が開創され当地域の文化的中心地だった事が窺え条里制の地割跡も見られます。
当地は山陰街道と物集女街道の分岐点だった事から交通の要衝でもありました。
戦後時代には織田信長の丹波国は栄邸の命を受けた明智光秀は当地を兵站の拠点として整備し、灌漑用水路(明智川)の開削等を行っています。
特に物集女街道は北摂と京都を結ぶ中心的な街道で、梅津や桂、嵐山から産出去れる木材を運んでいた事から重要視されました。
一方、当地は天皇家御料、公家領、所司領、社領、寺領等が入り組んでおり、統一した領主はいなかったようです。
江戸時代に入ると西国の諸大名の参勤交代で利用され、参勤交代の大名行列は京都の中心部に入る事が禁止されていた事から、樫原宿から伏見を経由し、東海道と中山道の宿場町である大津宿に至経路を利用した為、重要視されました。
江戸時代中期になると、西国大名は淀川や瀬戸内海を参勤交代で利用するようになり、相対的に樫原宿を利用する大名が減少しています。
樫原宿は京都から最初の宿場町で物資の集積地でもあった為、大いに賑わい、木屋や白酒屋、油屋、種屋、うなぎ屋、小間物屋、塩屋等が軒を連ねました。本陣は玉村家が歴任し、最盛期には11軒の旅籠があったとされます。
元治元年に発生した禁門の変で長州藩が粛清されると、3名の藩兵が尊皇攘夷に理解があり、長州藩の御用達の豪商小泉仁左衛門を頼り、当地まで落ち延びたものの、小浜藩の追討を受け討ち取られています。
現在も街道沿いには歴史的建造物が複数残されており、良好な町並みを見る事が出来ます。
山陰街道:宿場町・再生リスト
|