・福知山は古代から日本海勢力と畿内勢力が交差する要衝で、双方の文化の影響を受けました。
律令制度下では丹波国天田郡に属し、多くは皇室等の荘園となっています。
中世に入ると、地頭として就任した大仲臣氏や荻野氏、芦田氏等が割拠し次第に勢力を広げています。
室町時代には丹波国守護代の内藤家の影響力が強く、16世紀初頭頃に内藤家の後ろ盾を得た塩見氏が天田郡に入部しています。
塩見頼勝は八幡山の脇に掻上城を築城、天文年間には天田郡全域を支配し領内の整備を行っています。
当初は細川高国に与し、各地に従軍、勢力拡大に貢献しましたが、享禄4年、三好元長勢との争いに敗北し、高国が自刃すると、内藤宗勝や赤井直正の侵攻を受けるようになりました。頼勝は姓を「横山」に改めると、掻上城も横山城に改称しています。
織田信長の命を受けた明智光秀が丹波国に侵攻すると、頼勝の跡を継いだ塩見信房は赤井直正・波多野秀治連合軍に協力し、徹底抗戦しましたが、天正6年に赤井直正が死去すると、戦局は大きく明智方に傾き、八上城と黒井城が次々と落城しています。
天正7年、明智方の矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門、四王天政春等に攻められ横山城は落城、塩見信房と弟の塩見信勝も自刃して果てています。
その後、光秀が丹波国平定を完遂すると横山城が拡張整備され、名称を福知山城に改称しています。
光秀は由良川の改修や堤防の築造、商人の保護等を積極的に行い、現在の福知山は発展の基礎を築いたとされます。
江戸時代に入ると、福知山藩の藩都、山陰街道の宿場町、由良川舟運の川湊町として発展、周辺地域から多くの物資の集められ、丹波国、丹後国、但馬国の三丹地域の経済の中心として大いに栄え、その繁栄は「福知山千軒」と称されました。
明治29年と明治40年に発生した由良川の大洪水により壊滅的な被害を受け、江戸時代の町屋建築は殆どありませんが、その後に建てられた建物が宿場町らしい町並みを形成しています。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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