・亀山の地名は天正7年に明智光秀が築城し「亀山城」と名付けたのが始まりとされます。
光秀は織田信長の命により丹波攻めを行い、見事完遂すると、その支配の拠点の為に亀山城が築かれています。
城下町を町割りした際には周辺の柏原村や三宅村、古世村等9ヵ村から住民を集めています。
光秀は天正10年に本能寺の変を起こし、一時天下を掌握したものの、結果的に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ命を落としています。
亀山の地は京都に近く、丹波国支配の中心的拠点だった事から、その後は羽柴秀勝や豊臣秀勝、豊臣日秀俊、前田玄以等、秀吉の関係者や有力家臣が配されています。
江戸時代に入っても当地は重要視され、慶長14年に岡部長盛が配されると亀山城は藤堂高虎が縄張りする等「天下普請」で拡張整備されています。
城下町には北町、西町、紺屋町、魚屋町、柳町、塩屋町、本町、旅籠町、呉服町、京町、横町等、城内16町、城外4町、合計20町が町割りされています。
又、亀山は様々街道が交差する交通の要衝でもあり、街道の入口として「京口」、「穴太口」、「清水口」、「丹後口」、「篠山口」の五か所あり、亀山五口と呼ばれています。「穴太口」が穴太寺に向かう参詣道(穴太道)と山陰街道の分岐点となっています。
丹波亀山藩はその後、松平(大給)氏、管沼氏、松平(藤井)氏、久世重之、井上正岑、青山氏、松平(形原)が藩主を歴任し明治維新を迎えています。
歴代藩主は石高は概ね低かったものの十八松平家や徳川家の外戚の譜代大名が多く、老中や社寺奉行、京都所司代、大坂城代等の要衝を歴任しています。
戊辰戦争の際に丹波亀山藩は幕府方として行動した為、新政府方に協力した伊勢亀山藩との混同を避ける為に明治2年に敗北した丹波亀山の方が改名を余儀なくされ「亀岡」に改称しています。
現在も本町通りから西側に、伝統的な町屋建築が複数残され、良好な町並みを見る事が出来ます。
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