亀山城(亀岡市)概要: 亀山城の築城年は不詳ですが中世には荒塚城と呼ばれる小規模な城郭が存在し、天正5年(1577)に明智光秀が城域を拡大し亀山城を築きました。光秀は逸早く丹波を制圧し織田領の確立を図る為、築城には周辺寺院の石碑や石塔、敷石などを搾取し突貫で完成を急いだとされます。
天正10年(1587)の本能寺の変の際には光秀は亀山城を出立して織田信長の宿所である本能寺に向かっており歴史に名を残しています。
光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れると、秀吉側の家臣が城主を歴任し文禄2年(1593)に小早川秀秋が入封するとそれまで3層だった天守閣を5層にするなど改修し近世城郭へと変貌させました。江戸時代に入り徳川と豊臣の対立が明確になると当地域が重要視されるようになり慶長14年(1609)に岡部長盛が亀山藩に入封した事を期に天下普請で亀山城が大改修され大坂城包囲網の一翼を担いました。
その後は松平、菅沼、久世、井上、青山と比較的短期間で藩主が交代し寛延元年(1748)に松平信岑が篠山藩から5万で入封するとようやく安定し形原松平家が8代藩主を世襲して明治維新を迎えています。戊辰戦争では譜代大名だったにも関わらず戦況が不利になると新政府の山陰鎮撫使に降伏しています。
明治10年、廃城令が施行され天守閣以下多くの建物が破壊、払い下げとなり、城の中心部は大本教が譲り受けその境内となります。戦前は新興宗教の弾圧が厳しく、不当とも思われる大弾圧の末、多くの施設は火薬により爆破されました。
亀山城:上空画像
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