・当地は古くから山陰街道と田辺から山家を経て檜山を結ぶ京街道が合流する交通の要衝だった所です。
中世は足利尊氏が篠村で挙兵した際にそれに呼応し、丹波国舟井郡にあった元近衛家荘園の山内荘を本貫とした山内氏が支配しました。
室町時代中期には8代将軍足利義政に従った山内貞通が橋爪城を築き領内支配の強化を図っています。
戦略的な要衝でもあったようで京極持清書状(「萩藩閥閲録」所収那珂川与右衛門家文書)には文明元年八月十一日付で「於檜山合戦之時、被官人致太刀打、手負候由」と記されており、当地で合戦が行われています。
京極持清は室麻幕府侍所頭人兼山城国守護、出雲国守護、隠岐国守護、飛騨国守護、近江国守護を担った人物で、応仁元年に応仁の乱が発生すると、持清も対処に当たり、檜山合戦もその一つと思われます。
12代将軍足利義晴に従った山内久豊は争乱に巻き込まれ、橋爪城は落城、自身は尾張国の織田伊勢守信安を頼り、尾張国に落ち延びると、後に黒田城の城代に抜擢されています。
江戸時代に入ると、旗本の柴田七九郎家が幕府直轄地525石を支配し、檜山に陣屋を構えています。
柴田康忠は永禄4年頃から徳川家康に従い、永禄6年に三河一向一揆平定に功績があり、家康の「康」の字を賜ったとされ、その後、旗本先手侍大将の1人に抜擢されています。
康忠はその後も主要な合戦に従軍し天正19年には5千石を領しましたが、跡を継いだ柴田康長は家臣の不祥事により一時改易となり、その後、武蔵国大谷領3千石で復し向山村に陣屋を構えています。
柴田氏はその後、康久、康利と続きましたが、元禄11年に柴田康利の代に、本領が召し上げられた当地に移封、檜山に陣屋を構えたと思われます。
又、山陰街道の宿場町としても発展し貝原益軒の「西北紀行」にも「檜木山村」として記されています。
現在も街道沿いには町屋建築が点在し、宿場町らしい町並みが見られます。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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