・園部の地は5世紀から7世紀頃に複数の古墳が築造され、特に古代の窯跡が5ヵ所程確認されていおり、当時から多くの人々が生活していた事が窺えます。
丹波国が立国すると船井郡に属し、平安時代には藤原家一族の荘園である「今林荘」や「野口荘」、「桐野荘」等が成立しています。
鎌倉時代に入ると藤原家の衰退と源氏の台頭により、多くの荘園が源氏系に移り変わっています。
室町時代に入ると丹波波多野氏が支配し、「波多野氏旗頭七人衆」に数えられた荒木山城守氏綱が園部城を築き子供の久左衛門氏兼を配されたと目されています。
荒木氏は園部にある室町幕府御料所の桐野河内に税を課し、氏兼は天満宮の境内を保護する為に禁制を発給しています。
「信長公記」によると天正6年に信長の命を受けて明智光秀と滝川一益、丹羽長秀が荒木山城守が護る城を落城させた事が記されており、この城を園部城の事とする説があります。
元和5年に但馬国出石藩主だった小出吉親が2万9千5百石で入封すると園部藩を立藩、小出氏は城主格ではなかった事から園部城の跡地を利用して新たな陣屋を設け、藩庁、藩主居館を整備しています。
同時に陣屋町の町割りも行われ、「上本町」、「下本町」、「宮町」、「若松町」、「新町」、「大村町」が成立し、山陰街道を陣屋町に引き込む事で物資の流通や経済の拠点になるような計画を立てています。
町の中心となった宮町は、元々天神社の門前町だった所で、園部藩時代には銀札所や掛屋等がありました。
街道沿いには本町、上本町、新町が町割りされ多くの町屋が軒を連ね、本町には本陣と脇本陣が設けられています。
本陣は新屋小林家が担い、幕末の戊辰戦争の際には園部藩が新政府方に協力した事もあり、鎮撫使一行が園部に入った際、小林嘉兵衛家を宿所として利用しています。脇本陣は合羽家が担い、現在も旅館業を営んでいるようです。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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