・菟原の地は平安時代前期から中期にかけての貴族、歌人として知られる紀貫之所縁の地で、地名の大門は貫之の屋敷の門があったとも云われ、鎮守である梅田神社には祭神として紀貫之が祭られています。
ただし、この屋敷は後裔の紀忠道の屋敷だったとも云われています。
民部卿広橋経光の日記である「経光卿記」の寛喜3年5月の条には「五箇庄内菟原・竈谷」と記されており、鎌倉時代には荘園だった事が窺えます。
室町時代初期に、紀氏の後裔である細見成信は、足利義満の重臣で丹波国に蟄居していた細川頼之に見いだされ、菟原、多紀等16ヵ村を与えられています。
菟原荘の範囲は不明ですが、「丹波志」によると、菟原下、菟原中、友渕、大身郷で構成されていたと記されています。
又、梅田神社が所有している長享3年の棟札には「丹州天田郡菟原庄細見村」と記されている事から、細見村も菟原荘に含まれるとも云われています。
細見氏は引き続き細川家に従い、享禄4年に発生した天王寺の戦いでは細川高国方として参戦したものの細見山城守が討死しています。
細川家が没落し、織田信長が台頭すると織田家に従いましたが、信長と足利義昭が対立すると、足利将軍家方に与した事から、信長に丹後攻めを命じられた明智光秀と対立しています。
天正4には光秀軍が黒井城を攻めあぐね軍を引き上げる際、細見将監信光が鼓峠で襲撃し、撃破したとされます。
しかし、天正7年に光秀が黒井城を陥落させ、丹波国を平定すると、細井氏も領主格からは没落し、多くが帰農しています。
江戸時代にはいると、旗本の管沼氏が支配し、その後は旗本の田中氏、旗本の小宮氏の知行地となっています。
山陰街道の宿場町でもあり、本陣や人足駅問屋等が整備されました。
元禄2年山陰街道を利用した儒学者の貝原益軒は、著書である西北紀行で「是よりほうその嶺を越え、菟原村を過ぎ、千束に至る、日は既に薄暮なればここに宿りぬ。」と記しています。
現在も街道沿いには酒蔵や土蔵、店蔵等が点在し、宿場町の面影が感じられる町並みを見る事が出来ます。
特に、菟原中と丹波町を結ぶ細野峠を含む約2キロが文化庁の「全国歴史の道百選」に選択されています。
山陰街道:宿場町・再生リスト
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