舞鶴市(歴史)概要: 4世紀中葉に築造された切山古墳は京都府北部では最古にあたり、舞鶴市周辺は比較的早くから開発されたと思われます。7世紀は丹波国に属していましたが和銅6年(713)に丹後国が独立し舞鶴市の大部分は加佐郡に入りました。承平年間(931〜938年)に編纂された「和名類聚抄」では丹波国の国府は加佐郡(舞鶴市)にあったと記されていますが、一之宮の籠神社や丹後国分寺跡が宮津市府中にあることから一般的には与謝郡に国府があったと推定されています。中世に入ると一色氏が守護として支配しましたが天正7年(1579)、織田信長の命を受けた明智光秀と細川藤孝が丹後に侵攻したことで衰退し天正10年(1582)に滅亡しています。丹後、丹波平定に功があった細川藤孝は丹後一国を与えられ宮津城を築き領内の中心とし、本能寺の変の際は縁戚関係だった明智光秀を裏切り羽柴秀吉に組みしたことで本領が安堵されました。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは、東軍に組した為、周囲の西軍1万5千の兵が田辺城が取り囲み50日に及ぶ籠城戦が繰り広げられました。藤孝は後陽成天皇の仲介で命が助けられ丹波亀山城に幽閉されましたが、本戦である関が原で東軍が勝利し、人質だった細川ガラシャ(明智光秀の三女)は自刃して東軍の士気を高め、嫡子忠興も戦功を上げた為、39万6千石の大身となり豊前中津に転封します。代わって田辺城には飯田城(長野県飯田市)から京極高知が12万3千石で入りますが、宮津城が整備されると居城を移し、慶長20年(1615)に発令された一国一城令により田辺城は一時廃城となります。その後、京極高知は丹後国を3分割し宮津藩7万5千石を嫡男・高広に田辺藩3万5千石を次男・高三に峰山藩1万3千石を養子・高信にそれぞれ継がせています。寛文8年(1668)、3代京極高盛が豊岡藩に移封になると牧野氏が攝津より3万5千石で入封、こ以後、牧野家が藩主を世襲し明治維新を迎えています。明治34年に海軍の舞鶴鎮守府が設置されると軍港として発展し、造船所や軍学校などが開設されます。
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