福知山市(歴史)概要: 福知山市は古くから内陸と日本海側を繋ぐ交通の要衝として知られ、広峯古墳群では古墳時代初期から中期にかけて約40基の古墳が築かれています。特に15号墳は全長約40m、後円部径25mの前方後円墳で副葬品として盤龍鏡(景初4年(239)の銘があり邪馬台国が存在した同時期とされ貴重なものです。)が発見されています。
中世に入ると丹波守護職細川氏が支配し、福知山市を含む天田郡は細川氏に組した塩見氏(後の横山氏)が大きな影響力を持ちます。天正7年(1579)、明智光秀の丹波侵攻により横山城は落城し当時の城主横山信房は自害、光秀は福知山城と改称し城主には光秀の女婿で甥にあたる明智秀満を配し善政を行いました。
天正10年(1582)本能寺の変後、羽柴秀吉軍により攻められ、当時城の留守居役だった秀満の父は捕縛され粟田口で処刑、秀満も光秀の居城坂本城(滋賀県大津市坂本)に火をかけ自刃しています。
その後、福知山城の城主は秀吉の養子である羽柴秀勝をはじめ杉原家次、小野木氏等がそれぞれ短期間歴任し、慶長5年(1600)の関が原の戦いでは当時の城主小野木重勝は西軍に付き宮津城攻略に参加、その後東軍の攻勢にあい細川幽斎等が率いる大軍に福知山城が包囲され、重勝は開城の後自刃しました。
江戸時代に入ると有馬豊氏が遠江横須賀(現在の静岡県掛川市大須賀町)から8万石で入封し福知山藩を立藩、福知山城は藩庁として改修整備されます。元和6年(1620)に有馬豊氏が久留米藩に移封になると岡部長盛が3万2千石で亀山藩から入封し、寛永元年(1624)に長盛が大垣藩(現在の岐阜県大垣市)に移封となると稲葉紀通が4万5千7百石で摂津国中島藩から入封し、慶安元年(1648)に稲葉家が改易になると松平忠房が4万5千9百石で刈谷藩から入封します。
寛文9年(1661)に朽木稙昌が3万2千石で土浦藩(現在の茨城県土浦市)から入封すると、以後朽木家が藩主を13代歴任し明治維新を迎えています。
一方、城下町は山陰街道の宿場町である福知山宿として整備され、多くの人や物資が行き交い大いに賑わっています。
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