美山町北茅葺集落・景観

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【美山町北集落】美山町北集落京都府南丹市)は京都府の北部、若狭(福井県)に接し由良川の上流部に位置しています。古くから、大消費地だった京都と北前船の寄航地だった小浜を結ぶ若狭街道(鯖街道)が通過していた事から多くの旅人や商人の往来があり、様々な文化や物資が入り込みました。美山町北集落の成立時期は判りませんが、鎮守である知井八幡神社の前身となる祠が和銅6年(713)に甲賀三郎兼家が八ツ頭の大鹿を退治した伝説に基づいている事から、真偽はともかく、奈良時代にはその下地が出来ていたように感じます。古代は丹波国弓削郷に属し知井庄が成立すると中心的な存在となり延久3年(1071)には産土神的な存在だった祠に八幡神の分霊が勧請され知井之庄9ヶ村の総社となる知井八幡神社(本殿:京都府指定登録文化財・境内:京都府文化財環境保全地区・御神木:南丹市指定天然記念物)が創建されています。元亀元年(1570)には現在地である美山町北集落の外れに遷座している事からも当集落が中心だった事が窺えます。集落の一番高所に境内を構える晋明寺は14世紀中頃の南北時代に春屋妙葩(知覚普明国師)に創建された曹洞宗の寺院です。春屋妙葩は室町時代の臨済宗の高僧で相国寺の事実上の開山者で、天龍寺や臨川寺の住職を歴任した事から晋明寺も寺運が隆盛したと思われますが、その後衰微し太平洋戦争中の火災により大きな被害を受けています。

美山町北集落は江戸時代に入った慶長7年(1602)に幕府の直轄地である天領に属し、寛文4年(1664)以降は篠山藩領(兵庫県篠山市北新町:本城−篠山城)に属し、享和2年(1802)に山林のみが禁裏御料となっています。明治時代に入り、近代交通網が整備されると若狭街道(鯖街道)を利用する人が激減した事から大規模な近代化が図られず長い間、農業などを中心とした伝統的な生活が続けられ、結果的に現在見られるような茅葺屋根の古民家が数多く残る日本国内でも稀な存在となりました。

美山町北集落は日当たりの良い緩い南斜面にある集落で、背後の北側には里山、正面南側の東西約600m、南北約300m程の範囲には雛壇状に段々に整地し敷地毎に石垣で囲い要所には水路が通されています。整地した平面には主屋を南向きの平入で配置している為、極端に建物が重なる事が無く、採光や通風が有利になるような工夫が見られ、低地から見ると、その様子が良く判り、立体的に屋根が重複しているような独特な集落景観をしています。主屋の多くは「北山型民家」と呼ばれる形式で、木造平屋建て、入母屋、茅葺屋根(下屋庇は桟瓦葺き又はトタン葺き)、南面平入(元々の北山型民家は妻入が主流で、美山町北集落でも古い形式を踏襲しているものは妻入ですが、時代が下がると平入を採用する民家が多くなっています)、間取りは田の字型、間仕切りが板壁又は板戸、屋根の軒には雪割りと千木、土間が外部より高い、屋根妻面の破風には家紋の透かし彫りの通気口などの特徴があります。現在でも美山町北集落には50戸の家屋中、38棟が茅葺屋根の古民家が残され、白川郷萩町(岐阜県白川村・伝建地区・世界遺産)、大内宿(福島県下郷町・伝建地区)と共に日本三大茅葺屋根集落に数えられ、集落と景観が構成されている里山全域127.5ヘクタールが平成5年(1993)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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 京都府:伝統的・町並み・探訪|伊根浦美山町北
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