田辺城(舞鶴市)概要: 田辺城は京都府舞鶴市字南田辺に位置する城郭です。田辺城は天正8年(1580)、当時の領主細川幽斎が築いたのが始まりとされます。幽斎は織田信長に従い、天正6年(1578)、丹後守護職であった一色義道を滅ぼすと、居城を宮津城に定め、交通の要衝であったこの地に田辺城を築き領内の経営の要としました。
本能寺の変の祭は旧知の仲であった明智光秀に応じず、豊臣秀吉に従った為、領土が安堵されましたが幽斎は忠興に家督を譲り田辺城に隠居し恭順の意を示しました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に組し、僅か500の兵を率い田辺城に籠城しました。西軍は1万5千ともいわれる大軍で田辺城を包囲しましたが元々戦意が低く、幽斎は「古今伝授の書」を受け継いだ人物として懇意している武将も多かったことから思わぬ長期戦となりました。
2ヵ月後、後陽成天皇の勅命により和睦が成立し田辺城は開城し幽斎は西軍の丹波亀山城に引き渡されました。忠興は徳川家康に従軍し本戦である関ヶ原でも戦功を挙げ、人質となっていた正室ガラシャ(明智光秀の三女)が自害し東軍に恭順の意を示したことが認められ幽斉・忠興親子は豊前中津39万6千石の大身として転封します。
代わって田辺城には飯田城(長野県飯田市)から京極高知が12万3千石で入りますが、宮津城が整備されると居城を移し慶長20年(1615)に発令された一国一城令により田辺城は一時廃城となります。
その後、京極高知は丹後国を3分割し宮津藩7万5千石を嫡男・高広に田辺藩3万5千石を次男・高三に峰山藩1万3千石を養子・高信にそれぞれ継がせています。
寛文8年(1668)、3代京極高盛が豊岡藩に移封になると牧野氏が攝津より3万5千石で入封、この時、田辺城も城門や石垣などを改修、以後、牧野家が藩主を世襲し明治維新を迎えています。
田辺城:上空画像
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