与謝野町(歴史)概要: 4世紀後半に築造された蛭子山古墳は全長約145m(日本海側第3位)の前方後円墳で、当時この地に有力豪族が存在していたと思われます。7世紀は丹波国に属していましたが和銅6年(713)に丹後国が独立し、承平年間(931〜38)に編纂された「和名類聚抄」では与謝野町の大部分は丹後国与謝郡山田郷に属していました。当時の丹後国国府は宮津市府中付近にあったと推定され、それに続く官道が与謝野町に中にも通っており養老6年(722)に設置された勾金駅(馬が5匹配置されていたようですが、場所などは不詳。)も与謝野町にあったと推定されています。中世に入ると嘉悦氏が支配したとされ、その後丹後守護職となった一色氏の家臣石川氏が支配します。当初、一色氏は丹後に滞在していなかった事もあり石川氏は守護代を勤めるなど次第に勢力を拡大し与謝郡、中郡、竹野郡を領する国人領主化します。石川氏は明応10年(1501)、新たに丹後守護になった武田元信の家臣で守護代延永春信と対立し、永正4年(1507)には丹波守護代内藤貞正が加悦城を守る石川直経を攻撃しています。その後、一色氏が守護に復権しますが永正13年(1516)、一色氏の主導権争いに巻き込まれ一色義清側に付いた石川直経は一色九郎に攻め込まれ加悦城が落城したそうです。織田信長の命により明智光秀と細川藤孝が丹後に侵攻すると一色氏は頑強な抵抗をみせますが石川氏が凋落により織田側に立つと形勢が一気に傾き一色氏は滅びます。丹後一国を与えられた細川藤孝は加悦谷に有吉将監立言を配すると、立言は有吉城を築き、城下町や街道の整備を行います。慶長5年(1600)の関が原の戦いで大功のあった細川氏が豊前中津藩39万6千石で移封になると有吉城は廃城となりますが、江戸時代を通して丹後と京都を結ぶ交通の要衝、物資の集積場として発展し、特に丹後ちりめんの一大生産地として広く知られるようになりました。現在でも街道沿いには古い町屋が建ち並び平成17年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
|