綾部市(歴史)概要: 綾部市には旗投遺跡や石原遺跡、青野遺跡群といった遺跡が点在し古くから人々が住んでいたことが分かります。5世紀前半に築造された聖塚古墳は一辺54.2m、3段築成の方墳で円墳としては京都府最大級とされています。
5世紀末に築造された高槻茶臼山古墳も由良川流域最大級の前方後円墳で、当時の綾部市には有力豪族が支配していたと思われます。又、綾織りや紡織の卓越した技術を持った漢部氏一族が支配したとも云われ地名である綾部の由来にもなっています。7世紀には丹波国が成立し、その後但馬国が分国、さらに和銅6年(713)に丹後国が分国しました。綾部市は丹波国何鹿郡に属し青野町南遺跡が郡衙跡とも推定されています。
鎌倉時代に入ると宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子:鎌倉幕府第6代将軍)に従った観修寺重房は上杉庄を与えられ上杉重房に改称、さらに有力御家人だった足利氏と縁戚関係を結ぶ事で地位を確立し、重房の娘清子は足利尊氏を生んだとされ綾部市は尊氏出生地とも云われています。室町時代に入ると細川氏が守護として支配しますが次第に形骸化し、地形的要因から統一した領主が現れず国人領主が割拠します。
綾部市では新田氏一族の江田氏や位田城の荻野氏、栗城の大槻氏などが支配しますが明智光秀や羽柴秀長の丹波侵攻により織田領となり天正10年(1582)には谷衛友が1万6千石でこの地に配されます。谷氏は関が原の戦いで西軍に付くも許され1万石で山家藩を立藩、綾部城には九鬼氏が2万石で入封し綾部藩を立藩しています。
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