京丹後市(歴史)概要: 京丹後市には4世紀中葉に築造された全長198mの網野銚子山古墳(日本海側最大の前方後円墳)や全長190mの神明山古墳など大型古墳が点在し、当時の大和王権とは異なる独自の文化圏を形成していたとも云われています。7世紀は丹波国に属し、当時の国府は丹波郡に設置され現在の峰山町丹波がその地だったとも云われています。和銅6年(713)に丹後国が独立し、現在の大宮町、峰山町が丹波郡、網野町、丹後町、弥栄町が竹野郡に属していました。中世に入ると一色氏が丹後国の守護職となり、嘉慶2年(1388)には吉原山城を築き丹波郡の軍事、政治の中心地となりました。織田信長による丹後侵攻後は丹後攻略で功があった細川氏が一国の領主となり天正10年(1582)には細川興元(細川幽斎の次男)が吉原山城を改修し城下町の整備を行っています。慶長5年(1600)の関が原の戦いで大功のあった細川氏が豊前中津藩39万6千石で移封になると京極高知が12万3千石で入封します。高知が隠居時に領内を宮津、田辺、峰山に3分割にし、峰山には京極高通が1万3千石で配され峰山藩を立藩します。吉原山城の麓に陣屋を構え藩庁とし、5代藩主高長は「丹後ちりめん」を奨励し6代藩主高久と7代藩主高備は若年寄など幕府の要職を歴任しています。久美浜町地区は幕府の天領で久美浜代官所は山陰地方の天領を統括する立場で、明治時代には一時久美浜県が設置されました。
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